「ここにいるよ!ここにいるよ!」
SNSを開くと、そんな大合唱が聞こえてくる。これは幻聴だろうか。
小学校のころ、目立ちたがりの人はクラスで2、3割ではなかったか。
それがいまSNSでは、みんながここだ、ここだ、と手を振っているように感じる。これはどうしたことか。
そこのあなた、決して目立ちたがりではなく、授業参観でも手を挙げていなかったではないか。
算数はギリギリOK、国語みたいな正解がないものは恥ずかしくて手を挙げないのではなかったか。
それが、ツイッターみたいな最初から正解なんてないところで手を挙げている。
一体どうしたのだ。
そこで「ここのラーメンうまい!」とかつぶやいている君、そんなキャラじゃなかったろう。
そもそもラーメン別に好きではなかったではないか。
そこの君、この本は読んでおいた方がいいなんてわざわざ本の写真まで載せて。
他人の書いた本を宣伝して何がしたいのだ。まるで本の帯のようではないか。
以上、感じるままに書いてみた。読み手の皆さんにも感じるところがあるのであれば、みなこの状況に違和感を持っているということだろう。
それとも我々が間違っていて、これがみんなの素の姿なのか。
いや、違うだろう。みんな承認欲求にかられて自分を見失っているのだ。
私はみながそんなに目立ちたがりな人ではないと思っているし、実際に目立つ人間でもないと思っている。
目立つための発言などせず、もっと普通のことを普通にしゃべっているはずだ。天気やニュース、スポーツや友だちの話など。
そして、それで全く問題ないと思っている。それで十分に素敵な人間だ。
それが、SNSの場になるとみんなが揃って手を挙げている。
つまり、どこか歪んでしまっているのだ。
もういいではないか。アドラーの言うように、承認欲求は捨ててしまおう。
いいねがつかなくても、フォロワーがいなくても、自分は自分のままでいいのだ。
フォロワーの量であなたの本質的な価値は変わらない。
当たり前だ。価値が外部の評価によって変質することなどない。
もしこのコラムを読んでいる人で、そんな仮面をつけて苦しんでる人がいたら、もうやめにしてほしい。
じゃあ誰がいいねをくれるのかって?自分がいるじゃないか。
自分をほめるのは自分で十分だ。あなたが内部の価値をあなたが理解してやらずにどうするというのだ。
仕方がない。見本を見せてみよう。
そう、私は目立つのが好きではなく、だいぶ変わったやつで、心がまだ幼くて、空気がうまく読めなくて、でもほんの少しだけ優しいところもあるし、天気の話もよくする。
ほら、いいじゃないか。
最後に、この問題に有効なツールをあげておく。前回のコラムと同じやんけと言われそうだが、それでもおすすめな事実には変わりがないので空気を読まずに再掲する。2つめは自社アプリで宣伝ぽいが自分をほめるなどセルフケアができるものなので。
【この問題に有効なツール】
・嫌われる勇気(書籍)